いまさらながら、自分の知識と教養の不足に驚いた。実は、前々から気になっていたのだが、政策を論ずるときに、その政策が正義であるかどうかを夢中になって論ずる人がいる。というか、そういう人がほとんどだ。私はそれが不思議で仕方がない。私は、政策の目的が「正義」だとは思っていない。政策の目的は「幸福」だろう。めんどくさい言葉で言えば、厚生の増大だ。そのようにかたくなに思っていたので、政治学の中で、政治とは何を目的になされるものなのかというのを調べてみた。驚いた、過去の哲学者とか政治学者とか偉い人のほとんどは、政治の目的を「正義」の実現に置いているようだ。確かにプラトンは、国家は正義を保持しなければならないと考えたし、国家の在り方のベースに正義を置くという考え方は多い。プラトンを向こうに回して、私が何か言えるとは思っていないし、確かに、正当性というのは統治に不可欠ではある。私は無知だった。

しかし、それは目的なのか。多分、それは根拠のようなものだろう。目的ではないような気がする。しかし、そういうことを大声で言った人はあまりいないようだ。いたとしてもとても少数派なのだろう。ベンサムは「最大多数の最大幸福」を唱えた。功利主義というやつだ。最近はやりの正議論みたいなものでは批判も多い。、政治学的な面もなくはないのだが、本来、倫理学の分野での議論だろう。政治を取り上げて、その目的は「幸福」だと言った人が誰かいるのだろうか。誰かいてほしいと思っている。何故、そんなことを考えるのかというと、何かの「正義」で政治を語る人が好きになれないからである。はた迷惑という感じである。テレビなどで、真っ青になって「正義」を主張している人を見るとうんざりする。政策というのは複雑で、一件ダメそうな政策が、周辺環境や時代の流れで、良い結果につながることがある。基盤としての「正義」は必要だが、それも程度問題で、実際、正議論をやってみると、「正義」などは理屈の立てようでどうにでもなる。だから、ある政策が実際、幸福につながったのか、厚生を増大させたのかということを、きちんと分析して評価することの方が、「正義」の主張よりも重要だと、経験的認識に重きを置く科学者としては思う。
私は、政治に関する関心がなくて、選挙など行ったことがない。そういうと、また、とても怒る人がいるが、私は自分自身を「幸福」だと思っている。だから、政治を変える必要を感じないのだが、こういうのはいけないのだろうか。
おそらく、「正義」というのは、とても人を興奮させるものなのだろう。そうだとすれば、「正義」も私の言うところの「道楽=幸福」の一種なのかもしれない。そういう人は政治に夢中になれるのだろう。