513日は、New Washington市の選挙だった。市長と市議会議員などを選ぶ。一応政党のようなものがあるらしく。いくつかのグループがあって、そのグループごとにそれぞれの色があって、ポスターもまとまって、公園などに掲示されている。選挙演説などはあまり聞かないが、どこかでやっているのだろう。他の市も選挙で、自分の住民票のある市に戻って選挙をする。市の中心地の投票場は、小学校の中の住民の集会場のようなところだった。皆、長い列を作って順番に投票する。投票率はかなり高いようで、みんな真面目に投票に行く。バランガイ(村のようなもの)のキャプテン(村長のようなもの)の選挙もそうなのだが、フィリピンで、地方自治はかなり民主的だ。大変不思議なのだが、国会議員とか上のレベルに行くと、フィリピンの政治はかなり腐敗している。底辺が民主的でも腐敗するときは腐敗する。

投票率が高いことは、大変民主的で良いことだという主張がある。私は必ずしもそう思っていない。政治に対する不信感が強いと投票率が下がり、投票率が高くなると、民主的で政治が良い方向に行くと思っている人が多いようだ。

良い政治が実現されるためには、投票率が高く、デモクラチックな選挙が行われるべきだというのは理念の話だ。本当に投票率が高いと、政治が良くなり、人々が幸せになるのだろうか。実態としてそれは確かめられているのだろうか。その理念は事実に裏打ちされているのかという疑問だ。

 

よく言われているのは、ナチスは民主的な選挙によってえらばれたということだ。少なくとも、民主的な選挙が独裁のきっかけを作ったという例はある。投票率は政治的な対立点が明確な時に高くなる。実際、フィリピンの田舎でも政治的な対立点は明確だ。最もその対立点は理念的な物ではなく、お互い利害か異なる集団同士の争いで、対立軸は極めて明確だ。

国レベルでも、ある種の政治家は、こういう明確な対立点を作るのがうまい。実際、大した対立点でもないのに、大げさに、図式的に対立させる。こういう芝居がかった演出は、政治家も、小説家も、映画屋やテレビ屋も好むところだ。ついでに古いタイプの新聞屋もそうだ。芝居やドラマが嫌いなのは、そのような実態をかけ離れたところに作られる鮮明な構造に嘘を感じてしまうからだ。実際、芝居を無理に見せられると苦痛だ。いわゆる名演技などを見せられるのはもはや拷問に等しい。

 

そういうことを面白がってやっていると、大変危険なことになる。例に挙げたナチスもそうなのだが、例えば、毛沢東とかポルポトはどうだ。意図的に理念的な対立を作り出して、大衆(多くは子供)をコントロールした。その結果が、大量虐殺だ。人間の存在は、理念的に割り切れるほど純粋ではない。ある理念を立てれば、それを理由に誰でも攻撃できる。正義感というのが人間にしかないとすると、抽象的な理念として正義を立てる生物学的な動機は、攻撃本能の充足かもしれない。社会的な動物として人間は進化した。その中で人間の社会行動の多くは、本来、人が動物としても持っていた衝動の充足と結びついて進化したのだろうと想像する。だとすれば、正義が攻撃衝動と結びついていたとしてもおかしくはない。私は、別に共産主義者や社会主義者を非難しようとは思わない。しかし、彼らは知的に怠慢だとは思う。レーニン、毛沢東、ポルポトなど、いくつもの例がある。社会主義的理念を掲げた時に、それが、独裁と、人々の弾圧や大量虐殺につながっていくのは何故なのかということを、事実に即して分析的に考える義務があると思う。その根性がないのならば、イデオロギーや思想の主張などはやめた方が良い。自分はあれとは違うのだという言い方があるのならば、どこがどう違っていて、彼らがどうしてそうなったのかを説明できなければならない。

北京の青年の目が澄んでいたという作家がいた。だからなんだ。何を主張するのも勝手だが、たとえそれが若気の至りだったとしても、その澄んだ目の攻撃性について、考えようとしないのは、完全に思考能力の欠如だ

 

最近、とても面白い観察事例が出てきた。韓国だ、意図的に対立構造を作り出すことによって政権が交代した。そして、その政権はマスコミも含めて、さらに意図的に様々な対立構造を作り出そうとしている。その結果どうなるのか、毛沢東やポルポトの時は、リアルタイムで何がどうなっているのかわからなかったから、理念的な政治が、どのように悲劇につながっていく過程を十分に観察し記録することできなかった。今回は、情報が入るので、生物としての人間の行動原理の進化が何であったのかを冷静に観察できる、面白い事例だ。ジャーナリストがつまらん正義ではなくて、純粋な好奇心でその職を選んだのであれば、その好奇心を満足させる絶好の機会だ。

 

私は、人間の行動の中に組み込まれた、そのような仕組みは、進化の行き止まりの結果であって、すでに不要になった機能なのかもしれないと思っている。年寄りにやたらに正義感に満ちた爺がいて、多くの若者が彼らと同じような行動をしないことを嘆いているのを見ると、そんな気がする。