結論はどちらでも良い。というよりも、結論そのものに全く関心がないのだが、世の中で行われている、いわゆる「議論」の中には、それは議論ではないというようなものが多いと思う。そういう「議論」が見世物になっていて、テレビや新聞にもよく出てくる。あれは、単なる信念の表明のようなもので、もともとかみ合わないことを言って、お互いにわめいているだけだ。ただわめいているだけの人物が出てきて、演出されたとおりにわめいている。あんなもののどこがおもしろいのかわからない。わめいている人間は、所詮、馬鹿にされるにすぎないから、その個人について腹はたたないが、そういうかわいそうな人を見世物にすることにはイケナイことだと思う。自己責任という考え方もあるが、あれは明らかに能力の劣った弱者だから、見世物になっているのを見るのはイタイ。

お互いに価値観や利害が違うから、ある事実をめぐって、その評価が異なるのは当然のことだ。そのままでは、当然、議論がかみ合うことはない。議論をするからには、お互いに共通の基盤に立たなくてはならない。そのためには、問題になっている事実を確認して、事実の見え方・捉え方のどこがどのように違うのかを、まず確認しなければならない。人は立場が異なるから、見えている事実の側面が互いに違っているのかもしれないし、同じ側面から見ているのだが、それぞれの価値評価が異なるために、ある事実を一方が肯定的にとらえ、他方が否定的に捉えているのかもしれない。もちろん、それぞれの価値観が一致することはないのだが、ここまでくれば、妥協の可能性はある。あることによって一方が何かを得て、他方が何かを失う。その埋め合わせとして、他方が何を得るかという話だ。

極端な話をする。憲法9条つまり平和憲法があったから、それに守られて戦争がなく、人が死ななかったというような主張がある。しかし、これは間違いだ。平和憲法は明らかに人を殺している。李承晩ラインをめぐって、韓国に殺された漁民の数は確か44人だったと思う。これは事実だ。いつどのようにして殺されたか、明確な記録がある。その当時、日本に国防というものがあれば、漁民は殺されなかっただろう。竹島も奪われなかっただろう。韓国が漁民を殺したのであって、平和憲法が殺したのではないという言い方があるかもしれない。その論法を許せば、「非平和憲法」だって人を殺さない。殺すのは敵兵だ。死ぬ人数が比較にならないという議論には合理性がある。おそらく死ぬ人の人数は戦争の方が多いだろう。これに対して死ぬ人の数ではなくて内容が問題だという主張もあり得る。正しい戦争というのがあるとすれば、正しく戦争を行えば市民は殺されない。死ぬのは戦闘員だ。つまり、死ぬ可能性があることを受け入れた人が死ぬのと、そうでない人が死ぬのは意味が違うという主張だ。国と国民の間に契約があるとすれば、国には国民の生命財産を守る義務があるだろう。ならば、徴兵制の場合と、傭兵制の場合では、その評価は変わるかもしれない。

技術によって近代の戦争は大きく変わった。近代技術によって、大量破壊兵器が発達して、人を殺す数の競争になってしまった。第一次、第二次世界大戦を含めて、たくさん人を殺した方が戦争に勝つことになった。沢山殺さなくてはならないから市民も殺す。これが広島・長崎の原爆や東京大空襲の意味だ。そして、東京裁判では、戦勝国がその責任を一方的に敗戦国に押し付けた。一方、欧米の植民地支配に対して、良くも悪くも、第二次世界大戦の結果、多くの植民地が解放された。これが第二次世界大戦の世界史的な意味だ。だからと言って、別に、東京裁判をやり直す必要もない。現行秩序の維持と歴史の評価は別の話だ。おかしな裁判でも、その結果、秩序が回復し平和が達成されたのであればそれで良い。何が正義かではなくて、結果として、何が生まれたかという視点で歴史見る。正義で歴史を正そうとしてはいけない。第二次世界大戦も東京裁判も結果主義で、同じようにその歴史を受け入れしかないだろう。その歴史が正しかったかどうかなどはどうでも良い。このことは、事実としての歴史をどのように記述するかという問題とは別だ。その後、技術はさらに進歩した。そうすると、戦争のやり方もルールも変わるかもしれない。ミサイルだけでなく、ドローンや各種のロボット、情報戦争、戦争目的が相手を支配することならば、大量に人を殺さなくても相手をコントロールする手段はいくらでもありそうだ。第二次世界大戦後の戦争を見ると、非対称な戦争が多い。技術力や国力に差があって、お互い全く違う方法と目的で戦っている。テロなども、技術・国力が劣勢な方が仕掛けている戦争のようなものかもしれない。これはどうしても市民が巻き込まれるから物騒だ。敵対する国同士の技術力の差は極めて大きいから、当面、対称性を持った新しい戦争にはならない。だとすれば、戦争を放棄してもあまり意味はないし、軍備をしたからといって、戦争あるいはテロが完全に抑止できるわけでもない。憲法をめぐる議論はしょせん理念の議論だ。理念よりは、一般市民の生活と幸福をいかに守るかという具体的なやり方の方がもっと大切だ。だから、この議論に結論を用意していないし、結論を出す気もない。言いたかったことは、平和憲法も人を殺すという事実を認めると、議論が具体的に深まって、実際どうしたらよいのかがわかって来るということだ。ただそれでも、いつでも失敗は起こる。

 野生動物の動物保護活動というのがある。この議論の方が、平和憲法論よりも知的で、極論が少ないのだが、それでも原理主義的な人はいる。野生動物を保護して野生動物が増えれば、当然、野生動物による被害も増える。それを理由に野生動物の保護活動を非難する人が居る。こちらの方が原理主義的かもしれない。野生動物を保護してもしなくても、野生動物による被害は一定程度ある。種類と絶滅原因によるのだが、野生動物を保護したところで絶滅する種は絶滅する。地球の歴史の中で、種の出現と絶滅は常に繰り返されてきた。その動物がカワイイという理由で保護しても、絶滅する種は絶滅する。それが生物の歴史だ。それを人工的に保護するのは、もはや趣味の領域だ。もちろん、ある種の人間活動が種の絶滅を招くということも大いにある。その場合、その活動の人間にとっての必要性と影響の強さが問題になるだろう。野生動物をむやみに保護すると、その動物が増えて困ることがある。熊などを保護して生息数が増えると、熊に齧られる人の数が増える。もちろん、保護しなくても齧られるときは齧られるから、齧られる頻度の問題だ。実際、どのくらい齧られるかはやってみなければわからないから、あくまで、仮定を置いた予測値なのだが、どのくらい齧られたら良いか、そこのところを議論すれば、双方不満はあっても、一応、納得して合意できる。どちらにしても齧られるときは齧られるし、絶滅するときは雑滅するということを受け入れたうえで、妥協点を探すしかない。絶対絶滅させるなとか、絶対齧られるなとか言うのは、最初から議論の拒否にしかならない。 

東日本大震災後、巨大堤防建設の是非をめぐる議論がある。これも、巨大堤防があろうが微小堤防があろうが、大きな津波があれば、ある程度の人死は出るだろう。実際、東日本大震災の時も堤防があったので津波の到達時間が遅れて、その間に逃げた人は助かっている。もちろん、逃げ遅れた人は助からなかった。堤防の機能というのはその程度のものだ。それでも、ある程度の人数は助かる。その程度は堤防の大きさや機能にかかわっている。一方、巨大堤防であろうが、微小堤防であろうが、堤防はその規模に応じて、環境や生態系に影響を与える。いや、堤防がなくても、人が存在すれば環境に何らかの影響が有る。東日本大震災の時、大船渡市の吉浜では、一人しか行方不明者が出なかった。吉浜は、昭和三陸津波のあとに生活道路を山側に移して、高いところに住居があったからだが、それが可能だったのは、人口が少なかったからだ。また、海岸線が、比較的直線的だったこともエネルギーの集中がなくて、津波被害が少なかった原因だろう。それでも、一人は行方不明になった。湾奥の人工密集地帯ならばこうはいかないだろう。こういう自然条件、社会条件を含めて、何が最適かを議論することは可能だろう。

 片方が真っ白でその反対が真っ黒だという捉え方をする人は、およそ議論に向かない。議論に足を踏み入れるということは、汚れることを恐れないということだ。