最初に書いた現時点での国際比較のデータ(散布図)を拡散してもらいたい。続いて書いた新型コロナウィルス肺炎2は、その結果の解釈とそこから引き出される議論である。この文章の意図は、マスコミにおける「科学」の使い方を批判することにある。誤解がないようにことわっておくが、山中さんや本庶さんを批判することではない。批判しているのは、「科学」的な議論が必要だというときに、自ら科学的に考えようとしないで、高名なノーベル賞学者を連れてきて何かを言わせるという非科学的精神である。これを書いていたら、本庶さんが新型コロナウィルスが人が作ったウィルスだと言っているというフェイクニュースが広がっているという情報が入ってきた。こういうフェイクニュースを流す人は不届きだが。高名な科学者の名前を出して、だからそれが正しいのだとする詐欺師的話法はフェイクニュースを流す人もテレビ局の人も同じだ。

非科学的な「科学」主義はマスコミ以外にもいろいろなところにある。だから、この際、科学とは何かということについて私なりの意見を書いておこうと思う。多くの人は科学を適切に利用すべきだと思っている。それは科学が未来に送る問題についての判断や解決に役立つと思うからだろう。しかし、科学的な根拠に基づいて判断したとしても、結果的に間違えることはいくらでもあるし、科学技術が役に立たなかったり有害であることさえある。科学には弱点があるのだ。魚の資源の予想などは科学的にやってもしばしば外れる。海の中の環境や生態系に大きなパラダイムシフトがあると、そのパラダイムシフトの可能性が予想に含まれていなければ、予想の前提条件が崩れてしまうからその予想は当たらない。古典的には科学は経験的事実に基く推論(帰納法)だ。これは本質的な科学の限界だ。 まだ現役だったころ、大学の公開講座で私の分野の科学の将来についての話すことになった。それぞれの科学分野のバラ色の未来を語るということだろう。バイテクでもやっていればそういう話もできるかもしれないが、私はそういう分野の専門家ではないから他人の受け売りにしかならない。大体、そんな話を私のところへ持ってくるのが間違いだ。しかし、その時は、週一回の公開講座がすでに始まって最終回近くなって、予定された先生が急用で講演が出来なくなったのだそうだ。最終回のとりを引き受けるのだから、かなり高名な先生なのだろう。私では力不足だし話題の材料もない。暇だと思われていたのだろう。それでも数週間で適当に準備して講演に望んだ。聴講者の中にはこういう講座の常連のような人も少なからずいる。引きうけた以上はそういう人をがっかりさせてはいけないと思い。多少のサービス精神が働いてしまった。受けると思って、「科学はそもそも、経験的認識だから未来予測にはそもそも向かない。未来予測が聞きたければ占い師のところへ行け。大体、科学者は可謬性といって、根拠に基づく推論や仮説が仮に結果的に誤りだったとしても、その責任は問われない。そこへ行くと、占い師は占いが外れると商売ができないし、昔ならば、火炙りとか磔になった。どちらが信用できるか。」とやってしまった。最後の最後の講演者がちゃぶ台返しである。主催者のとりまとめのスピーチで名指しで叱られた。これは、失敗談だが、科学が本質的に後ろ向きで、前向きに科学を使うことは難しいという気持ちは今でもある。東日本大震災以後、その気持ちはさらに強くなった。ただ一方で、科学は進歩して未来を切り開いてきた。これも科学的事実だ。 モデル屋と言われる分野がある。数理モデルを作って予測をするという分野だ。世界食糧モデルを作った大賀圭治は農業におけるモデル屋の先駆者の一人だが、大賀圭治に向かって、「大賀さんのモデルは変だよ。全部直線で出来ている。自然現象で直線になるものなどほとんどないだろう。」と言ったことがある。線形でないモデルを構築することがどんなに大変かわかっていない。大賀は、「どんな曲線も近似的に直線だ。微分を知らないのか。論文をよく読めよ。今の状態が続けばどうなるかという前提で書いているだろう。」と返してきた。さすがに大賀も大したものだ。本質を突いた反論だ。モデルに基づく予測は未来を占っているわけではない。科学が未来を切開いてきたのは、科学者が前例のないこと、やったことがないこと、可能性がありそうなことについて仮説を立てて、その仮説に基づいて実験をしたり、仮説に基づいてデータを集めて分析してきたからだ。やっていることとしては実験結果や集めたデータという過去の事実の分析で、帰納法的推論という古典的な科学論と同じだ。つまり、仮説に基づいて、ありそうな未来に立ち、その未来の時点からの過去を振り返っているのである。今の時代、実験をしたりデータを集めたり、その結果をコンピュータで分析するなどというのはそんなに難しくない。立ってみるべき未来をできるだけ広く適切に考える能力が科学者が持つべき資質なのだ。自然科学では多くの場合、そういう実験が可能だ。社会科学や生態学の分野では、実験が不可能な場合や倫理的に許されない場合がある。そこがそれらの分野の難しいところだ。モデルについていえば、そのモデルの前提になっている条件をいくつか取り除いたり、変更したりして、何がどのように変わるのかどんなことがその場合起こるのかをモデルで試してみることが、モデルを未来に向かって使うということなのだろう。その場合、ありそうな未来だけでなく、あり得なそうな未来についても、モデルを使った試行の対象にすべきだろう。これは、東日本大震災で私たちが学んだことだ。同時にこれは、科学者だけの責任ではない。今あるデータを自分たちでしっかり見て、こんなことを考えてみろとか、この場合はどうなると予想されるのかを、科学者に問いかけてみるというのが、マスコミや行政を含めた社会の責任であり一般人が持つべき科学的思考なのだ。外出自粛で暇だ。データの散布図ぐらい自分たちで書いてみろ。情報番組でタレントやコメンテータのくだらない発言を聴いているよりは面白い。